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2018年05月8日
[お知らせ] 関ヶ原の戦い間もない1619年、なぜ天守閣が造られなかったのか?
 内容
 歴史好きの方であれば、以下のことはよくご存知かと思いますが、関ヶ原の戦いは1600年にあった戦で、豊臣方(西軍)と徳川方(東軍)による日本を2分する大きな戦でした。
 少々話が長くなりますが、この戦いは大きく言えば、豊臣方と徳川方の勢力争い、結果的に徳川方が勝利し、日本の事実上の統治者が豊臣家から徳川家に交代することになりました。
 関ヶ原の戦いに遡る1582年、本能寺の変という大きな事件が起こりました。これは、豊臣秀吉の今でいう上司に当たる織田信長が暗殺された事件で、また織田信長の同盟者であったのが徳川家康になります。織田信長が暗殺された後、結果的に、信長の信頼厚かった部下である秀吉が天下を支配することになり、最終的には、信長の同盟者という格の高かった家康も秀吉の配下となりました。
 秀吉が1598年に亡くなると、くすぶっていた豊臣家の中の武将方と事務方の争いが顕著になったことから、事務方のトップ格であった石田三成が事実上率いる西軍と武将方と一体となった徳川家康率いる東軍による戦いが、1600年の関ヶ原の戦いです。
 この戦のあと、徳川家による江戸幕府の創設により、国内情勢が安定するのですが、それでも豊臣家に愛着を持つ大名が西国を中心に多く残っていました。また、豊臣秀吉の息子である秀頼が成長するにつれ、秀頼が利発であることがわかり出したこともあり、徳川家康は豊臣家と西国情勢に警戒心を抱くようになりました。
 このため、1614年〜15年の大坂冬の陣、夏の陣を経て、徳川家は豊臣家を完全に滅ぼすこととなりました。豊臣家の滅亡を見届けるかのように、家康は1616年に亡くなりますが、2代将軍徳川秀忠率いる江戸幕府は、まだ西国の動きに警戒心を抱いていました。
 すでに、明石の近隣である姫路城では、1617年に徳川家の譜代大名である本多家を城主につけ、西国の見張りとしていましたが、海峡であることから瀬戸内海の船の動きがよく見え、西国街道の人の往来の動きもよく監視できる明石に城を造るよう秀忠が命じたことが、明石城が1619年に誕生した経緯です。
 しかし、秀吉の信頼厚かった広島城主の福島正則が1624年に亡くなるなど、豊臣家の重鎮が徐々に亡くなっていったこと、また国内がまた戦国時代になるのはもうこりごりだという空気、江戸幕府が武家諸法度などの法整備を行ったことなどにより、国内情勢が安定していったことから、築城当時は天守閣を造るつもりで天守台を造ったものの、天守閣は造られなかったという説と、天守閣を造ると戦の時に標的にされやすいため造らなかったという説があります。現状では、造られなかった理由が記録として残っていないため、イマジネーションに任せるしかないようですが、皆様はどのように解釈されますでしょうか?

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